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私達の学び 目からウロコの内容

メシヤ教の楳木代表が各支部で毎月開催されたメシヤ講座の主要点を掲載

鶴見俊輔氏の哲学論”プラグマチズム”を引用して、メシヤ様が、御論文”プラグマチズム”で宗教観を明らかにされる

ある宗教評論家が「世界救世(きゅうせい)教の問題点をこうした点を当て嵌めて考えていった方が良いのではないでしょうか。」と言って送ってくださった資料があります。それは哲学者の鶴見俊輔という人の哲学論で、氏が初めて昭和21年に“プラグマティズム”の概要を書籍で発表しまして、そしてメシヤ様は昭和23年に“プラグマティズム”を御論文の中で引用されてメシヤ様の示される『宗教観』というものを明らかにされておられます。そのようにメシヤ様が御論文で取り上げているにも拘わらず・・・この鶴見俊輔という方は思想的に相応しくないのでは、という向きもあり、全面的に宗教がこの人の論を取り上げるということは相応しくはありませんが、実はこの方が指摘しているのは“言葉のお守り的使用法”ということです。

 敗戦後の日本人の中に「自分たちは騙されて戦争に駆り出された」と言って現在戦争に対して反対している人たちがいらっしゃいます。「騙されて戦争に駆り出された」と言った人がそのまま行くとまた政府に騙されていくのです。“騙された内容は一体何か”ということを追求していかない限り、また騙されていくのだということです。

 これが現在世界救世(きゅうせい)教を覆っている現状と全く一緒な訳です。

 「上の幹部がやっていることだから下の信者はそれに対してとやかく言う必要はない」と仮に言った場合には、これはズーッと幹部は狂い続けて行くということです。ということと共通している訳です。

御教えに引用された御意図をどのように受け止めるかが分岐点

 メシヤ様が御論文の中で“プラグマティズム”を引用されたということは、人間というものは物事をキチッと考えて、そして考えて得た結論を“自分の生活の中で実践して、行動に表して行かないといけない”ということを私達に強く求めているのですけれども、中々それが出来ていないためにメシヤ様が御浄化に入られた時に、メシヤ様の身許に二本木先生という方がお見舞いに出かけた時にメシヤ様が何とおっしゃったかと言いますと、「『私が考えているような教団ではなかった』と述べられた」と言われております。

 これはどういうことかと言いますと、メシヤ様の説かれた御教えを真に実践する当時の教会長と言われる方々が、そのように“身を挺して取り組んで行っていたか”ということであります。

 メシヤ様が御浄化に入られて、そして『メシヤ』という御神格に上がられたということを皆さんに説いても、政府の方から「信仰の対象は何か」と大草管長が問詰められた時に困って『メシヤ』という御名を『明主』という御名に戻してしまった。という経緯がありますけれども、これは『皆んなが困っているようであれば困らないようにしなければならない』というメシヤ様の御心でもありましょうが、しかし弟子達がそれを背負い切ることが出来なかったということでもあります。

 (この出来事は、三千年前に伊都能売神皇様が日本人の生命の危機を回避されて、皇位を天照天皇にお譲りになってインドへ降られたことと重ね合わせられる面があります。心痛む内容です。)

 ですから、私達がこれから取り組ませていただくことというのは、神界で見守ってくださっているメシヤ様の、その御心を真に求めて、メシヤ様が進められようとされた御神業を担わせていただくということであります。今日お集まりの方々の気持ちがそこに共通して、さらに強まって継続していくということを願うところであります。

 その御教えを実践することによって竹さんは・・・   (中略)

具体的な問題解決法を示さずに慰霊の形のみに・・・これを改めねば

 そして、ご両親共々東方之光教団に所属していながら、具体的な竹さんの家の問題点を解決する手立てを打つことなく紫微宮を祀らせている、ということが最大の問題である訳です。東方之光教団の最大の問題はさっきの鶴見理論からいけば“言葉のお守り的使用法”を使って「今の経綸」という言葉ですべてを納得させながら“薬を使用しながら浄霊をする”ということに取り組んでいるということです。

 戦争によって日本人がキチッと反省しておかなければいけないことを反省しないまま現代を迎えているために起きている日本人の癖をそのまま東方之光教団は続けて、また使っているということであります。この現状に気付くことができなければ“メシヤ様の御心に叶う教団になり得えない”と言えるのではないでしょうか。

 (中略)


御教え『プラグマチズム』(昭和二十四年一月二十五日)

  私は若い頃哲学が好きであった。そうして諸々の学説の中、最も心を引かれたのは彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームズのプラグマチズムである。先づ日本語に訳せば哲学行為主義とでもいうのであろう。それはジェームズによれば、唯だ哲学の理論を説くだけであっては一種の遊戯でしかない。宜しく哲学を行為に表わすべきで、それによって価値があるというのである。全く現実的で米国の哲学者らしい処が面白いと思う。私は之に共鳴して、其当時哲学を私の仕事や日常生活の上にまで織込むべく努めたものであった。その為プラグマチズムの恩恵を受けた事は鮮少ではなかった。

 私は其後宗教を信ずるに至って、此哲学行為主義をして宗教にまで及ぼさなくてはならないと思うようになった、即ち宗教行為主義である。宗教を凡てに採入れる事によって如何に大なる恩恵を受けるかを想像する結果として、斯ういう事が考えられる。先づ政治家であれば第一不正を行はない、利己のない真に民衆の為の政治を行うから民衆から信頼をうけ、政治の運営は滑らかに行く、実業家にあっては誠意を以て事業経営に当るから信用が厚く、愛を以て部下に接するから部下は忠実に仕事をする為堅実な発展を遂げる。教育家は確固たる信念を以て教育に当るから生徒から尊敬を受け、感化力が大きい。官吏や会社員は信仰心がある以上立派な成績が挙り、地位は向上する。芸術家はその作品に高い香りと霊感的力を発揮し、世人によき感化を与える。芸能家は信仰が中心にあるから品位あり、観客は高い情操を養ひ、良き感化を受ける、といっても固苦しい教科書的ではない、私のいうのは大いに笑わせ、大いに愉快にし、興味満点でなくてはならない。其他如何なる職業や境遇にある人と雖も、宗教を行為に表わす事によってその人の運命を良くし、社会に貢献する処大であるかは想像に難からない。茲で私は注意したい事がある。それは宗教行為主義を実行の場合、味噌の味噌臭きはいけないと同様に宗教信者の宗教臭きは顰蹙に価する。特に熱心な信者にして然りである。世間よく信仰を鼻の先へブラ下げてゐるような人がある。之を第三者から見る時一種の不快を感ずるものであるから、理想的にいえば、些かの宗教臭さもなく普通人と少しも変らない、唯だその言行が実に立派で、親切で、人に好感を与えるというようでなければならない。一口にいえばアク抜けのした信仰でありたい、泥臭い信仰ではいけない。世間或る種の信者などは熱心のあまり精神病者かと疑わるる程の者さえあるが、此の種の信者に限って極端に主観的で家庭を暗くし、隣人の迷惑など一向意に介しないという訳で、世人からその宗教を疑わるる結果となるが、之等は指導者に責任があり大いに注意すべきであると思う。

(文字起こし御用を担った濵口三重支部支部長代理が『岡田茂吉全集』から引用。そのため昭和23年9月5日発表とする資料とは日付が異なります。)

【宗教評論家からの資料】

哲学者、鶴見俊輔の論文『言葉のお守り的使用法』について

 鶴見俊輔は、1922年生まれ、現在93歳。16歳でハーヴァード大学入学、当時ハーヴァード大学講師の都留重人からプラグマティズムを学ぶ事を勧められる。飛び級して19歳でハーヴァード卒業。日本に初めてプラグマティズムを紹介した哲学者。以下は鶴見俊輔の論文からの抜粋です。

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 言葉のお守り的使用法とは、擬似主張的使用法の一種であり、意味がよく分からずに言葉を使う習慣のひとつである。

 軍隊、学校、公共団体に於ける挨拶や、訓示の中には必ずこれらの言葉が入っている。

 「鬼畜米英」「八紘一宇」「国体」等がお守り言葉にあたる。

 大量のお守り言葉を国民に向かって繰り返し、国のやり方を正当化して国民を異常な行動に導く。

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 上記が鶴見俊輔の論文の一節です。この論文を見た時、東方之光教団の出す「御経綸」とリンクしてしまいました。

 ⇒教団はお守り言葉を使い、教団の企画を「御経綸」とすり替えて正当化し、正しいメシヤ様の教えを伝えていない。

 教団は、型と順序、個と家の完成、万人の医療者、三大事業、転換と向上、本筋の御神業、まちづくり等の大量のお守り言葉を信者に向かって繰り返し、教団のやり方を正当化して信者を異常な行動へと導いている。

 これは、戦争中の大本営のやり方と共通しているように感じてならない。(中略)引き続き論文の抜粋です。

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 人々がこのお守り言葉から解き放たれる為には、毎日使い慣れたわかりやすい言葉で語る事が大切である。

 人民は日露戦争以後ずっと黙っていた。中国に対する侵略も支持していた・・・そして結局負けた。この時一体何を記憶していたのか?それが問題。アメリカに負けて、一体どういうふうに、人民の記憶に残っているのか?それを知るのが「生きた」歴史を学ぶという事。

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 ⇒昭和25年の御法難から始まり、その後の一元化紛争、昭和58年の教団浄化を知る専従者、信者にも同じような事が当てはまると思います。これらの事件当時の専従者や、信者はそれぞれの立場で一体何を記憶していたのか?

 それを正確に知った上でなければ改革はできないと思います。

 現在40代の専従者(41歳~49歳)は、32年前の教団浄化が起きた昭和58年当時は、8歳から17歳でした。その親の世代(現在60~70代)も子育ての真っ最中で教団浄化の事を正しく理解している方は皆無に等しいのが実際のところです。今日の専従者は、一連の過去の教団が起こした事件について何も知りません。又知ろうともしません。過去の教団紛争についてこの年代(現在40代の)専従者に聞いても、「そんな事はどうでもいい!」という言葉が返ってきます。これは山田先生の徹底したご指導の賜物なのでしょうか?(苦笑)

 教団紛争の当事者である現教団執行部に飼い慣らされた過去を知らない専従者が改革を訴えたところで、一体何を改革するつもりなのでしょうか?何も知らない専従者が改革なんかできるはずありません。というか、「改革」もお守り言葉にされてしまい、「改革」という言葉を繰り返すことで信者が過去の教団の過ちから目をそらすよう仕向けているのかとも見えます。

 映画監督伊丹万作(1900年1月2日~1946年9月21日没・伊丹十三の父で、大江健三郎の義父)は先の戦争について以下のような言葉を残しています。

 『多くの人が今度の戦争で騙されたという。しかし、いくら騙す者がいても誰一人騙される者がいなかったとしたら、今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。

 「騙されていた」と言って平気でいられる国民ならおそらく今後も何度でも騙されるだろう。

 いや、現在でも既に別の嘘によって騙され始めているに違いないのである。』

 この言葉も鋭いものがあります。

 昭和25年の御法難を知る方は少なくなりましたが、一元化紛争、教団浄化を経て今日も信者を続けていられる方は沢山いらっしゃいます。

 そのような信者の方全てに当てはまるとは言えないかもしれないですが、当時を知らない私からすれば、上記の言葉は現在まで信者であり続ける多数の人々に当てはまるように思います。この言葉を初めて知った時、これは教団信者の事を言っているのかと思った程です。

 MOAの専従者や信者を見ていて思うことは、「経綸」という言葉で自分の行動を正当化する癖がついているように見えます。これは『夜の時代』に身に付いた癖の上に、教団によって新たに付けられた癖のように思います。

 「経綸」という言葉だけなら、教団のウソを見抜いて離れていく信者もいますが、何十年も信仰していて、不慮の事故や、突然死、長期間に渡る精神浄化、莫大な金額の金銭浄化等が起きても、「全てこれは明主様がされている。だから正しい。」と言われたら、その言葉で全てが正当化されてしまい、ウソに引っかかってしまっていると気づかない純粋な信者がいるのが現状です。(中略)

 先の戦争についての過去の資料を集めて分析していく作業を通して気付いた事は、『歴史は繰り返す。』という言葉の重みを今ほど強く感じた事はありません。

 メシヤ様は、御講話の中でも世界情勢に関して、

 『われわれとしては大いに関心を持たねばならぬ。観音運動は病貧争をなくすんだと言って暢気に仙人然としていてはいけない。』(昭和10年8月21日 御講話)

 『世界の情勢ですが、これは非常に関心を持たねばなりません…』(昭和10年12月11日 御講話)

と満州事変以降、日本が戦争へと暴走を始めていた時代に世界情勢や社会の動きに関心を持つようにと話されています。

 最近の東方之光のご面会では、統合医療とまちづくりの話題ばかりで、理事長は国内外で起きている自然災害や紛争について全く話をされないのは違和感を感じますが、これに対し東方之光信者は一体何を考え、何を思って理事長のお話を聞いているのでしょうか?

 大半の信者が、山田先生のご指導の通り「そんなことはどうでもいい。我々はメシヤたる明主様の元で世界経綸の中心にいる! 世界人類を救うのは我々東方之光なのだ!」などと本気で思っていられるとしたら、これは悲劇なのか、喜劇なのか?

 ある信者の方に「時代に取り残されているのでは?」と警告を試みた事がありますが、こちらの話を全く理解していただけませんでした 。そして「そんなことはどうでもいい!」という言葉が返って来ました。(後略)

本部メシヤ講座2015年6月

2015年7月の御教えは『文明の創造』宗教篇「善悪発生とキリスト教」343ページです



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タグ:鶴見俊輔 哲学 宗教観 東方の光

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